花まつり感話 1年生代表 斉藤秀弥
2019-06-07
6月5日(火)の花まつりでの生徒の感話の原稿を掲載致します。
1年A組 斉藤 秀弥(さいとう しゅうや)稚内東中学校出身
僕は社会に出たときに必要になってくる、思考力や判断力を鍛えるために、大谷高校に入学しました。なぜ大谷高校を選んだのかというと、中学三年生の進路相談の時、担任の先生が「大谷高校は、生徒一人一人に真摯に向き合って、人間性を育ててくれる高校だ」と言っていたからです。その後、担任先生から、大谷高校では「宗教」の科目があるということを聞きました。正直、最初にその話を聞いた時、どんなことを学ぶ科目なのかわからず、少し不安でした。そして、初めての宗教の授業で、「三誓偈を覚えてくる」という課題が出された時、色々なお経を覚えたりする科目なのかなと思いました。しかし、教科書を使った授業や、いじめにまつわる授業などがあり、宗教の時間は、ただお経を覚えるだけではなく、人間の命に関する授業等もあるということがわかりました。宗教の授業では、毎回、深く考えさせられる授業内容が多いのですが、その中でも特に心に残っているのは、「自分という存在を見つめなおし、人間が人間として偽りなく生きてほしい」という言葉です。この言葉や講話、全校朝礼での校長先生のお話などを通して、僕は、何気なく過ごしてきたけれど、自分が今こうして生きている中で考えなければならないことがあると思いました。例えば、宗教の授業の中で、釈尊の誕生の場面で、生まれてすぐに七歩歩いたという逸話を学びました。なぜ七歩なのかというと、六つの迷いの世界を越えたということを表しているからです。その中で、地獄という世界のことを学びました。地獄とは、孤独な世界で、周りには自分にとって害のある人ばかりで、共に歩む人がいない状態のことを表しています。共に歩む人がいないということは、つまり、誰とも関係性を築くことができない、ということです。これは、居場所を失っていくことにつながります。このことは、いじめ問題と共通点がたくさんあると思います。例えば、「わたしのいもうと」という絵本があります。その中には、言葉がおかしいと笑われたり、跳び箱ができないと馬鹿にされたり、クラスの恥さらしとののしられたりといった、いじめの様子が書かれていました。そしてついに、クラス全員から無視されるようになりました。また、抓られたりといった、肉体的ないじめの様子も書かれていました。これだけのことをしたにも関わらず、いじめた側はいじめた事などすらすっかり忘れて、普通に日常生活を送っていました。これらのことを考えると、地獄の様子といじめられた人の境遇は、重なる部分があると思います。また、いじめた側が忘れているということは、自分自身もどこかで気づかないうちに人を傷つけ、切り捨てているかもしれないということを教えられました。だからこそ、これからの高校生活で、人との関わり方をしっかりと考え、自分という存在を見つめていきたいです。
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